政治だけが変わらない 岡林弘志 (2011.4.21) 東日本大震災から一カ月が過ぎた。未曽有の地震・津波に原発事故が加わり、被害はいまだに収まらない。敗戦に次ぐほどの今回の国難は、過度に進んだ文明を過信し、依存してきたこの国の在り方、文明の利便さにおぼれていた日々の生活を浮き彫りにした。 国民は「これまでのようにはいかない」 多くの人々はこうした事態への反省からまず日常生活の切り替え、またエネルギー政策の在り方について認識を変えつつある。少なくともこれまでのようにはいかないと思いつつある。 また、被災地に暴動や略奪、便乗値上げがないこと、被災者らの忍耐強さ、秩序を失わない言動や他の被災者に対する思いやりなど、メディアを通じて世界に知らされ、称賛の的になっている。 そんな中で、政治だけが3・11以前の政争の次元から変わっていないようだ。まずは被災者・地域の救済、原発の暴走を食い止めるため最大限の努力をする。そして3・11後のこの国をどうする。政治の最重要の役割だ。 それには、すべての政党・政治家がそれぞれの立場で全力を尽くす必要がある。政治は国家の危急に適切な対処をするのが政治の基本の仕事という認識があれば、与野党の立場の違いはさしたることではない。 「国難」意識の欠如 長年の自民党政権が制度疲労を起こし、国民は戦後初めての本格的政権交代を実現した。しかし、民主党は政権奪取だけを目的にして、政権をいかに運営するかの準備が全くできていなかった。 鳩山―菅と続く政権は迷走を繰り返し、国民の期待はあえなく水の泡になってしまった。そんな状態の中で、今回の巨大にして複合した災害に襲われたのである。 「疾風に勁草を知る」(後漢書) 困難に遭遇した時にこそ、人間の強さや値打ちがわかる。しかし、もともと強くない指導者が国難に出会い、直ちに強くなるものではない。疾風に揺れ動くだけが目につく。 菅首相が模索した「期限付き大連立」をはじめとする与野党協力しての危機管理・対策の仕組みはできていない。この危機を乗り切るには、民主党の力だけでは不十分、「大連立」とは言わないが、自民党の経験や知恵も活かした与野党協力しての態勢が必要だ。 この国の政治全体として取り組むのでなければ、この国はだめになる。未来は開けない。こうした切羽詰まった認識のもとに、野党を説得する必要があったのにできていない。被災者・地域の救済、復興に目途が付いたら辞めるというぐらいの覚悟も、説得のために必要だ。 こんな時、民主党の悪癖である内輪もめまで始まった。政治資金問題で冷や飯を食わされている小沢一郎が、首相は辞めるべきと言い始めた。民主党出身の参院議長まで、自らの職責もわきまえずに、やはり退陣の声をあげている。これでは3・11以前と変わらない。危機意識の欠如はなはだしい。 首相がダメなら変えればいい。確かにそうだが、一日の休みも許されないなかで、政権を変えている暇はない。それに、代えるにしても誰を。自民党も含めてこれぞ非常時の指導者と名指しできる政治家はいるだろうか。当面、いまの首相の尻をひっぱたいてやらせるしかない。 原発事故は自民にも責任が 一方の自民党は、いっとき危機管理・連立政権に動いたこともあった。とくに、被災地を選挙区にする議員にとっては、地元の要望にこたえるには、予算・政策に直接かかわることができる政権への参画は切実だった。大所高所からの連立論もあった。 しかし、統一地方選で民主党が振るわなかったことや、連立は菅政権の延命に手を貸すことになるという思惑もあり、谷垣総裁は連立に加わらない方向に傾いている。国会でも菅政権の揚げ足取り、あらさがしに懸命だ。 自民党には、二年前まで長い間政権にあって、3・11までの災害対策や原発政策を推進してきた責任がある。とくに原発については、東電や各電力会社と共に安全基準を低く抑えつつ“安全神話”を喧伝し、カネをばらまき、住民に建設を受け入れさせてきた。 自民党には、災害救助・復旧、原発事故の一日も早い終息のために協力する責任がある。政権と距離を置いてケチをつけていればいいというのでは、あまり無責任だ。 天下国家・国民の視点が足りない 政治全体から危急の国難に取り組むという切実さ、責任感が見えてこない。かつてのように特定の団体・地域に対する利益誘導が政治の役割という意識、政争が政治という思い違いをしたまま、天下国家・国民を考える訓練をしてこなかった付けがここに出ている。 今回の巨大地震・大規模原発事故によって、政治家とくに指導者は天下国家・国民を視野に置いて国家運営のかじ取りするよう求められている。また、バブル崩壊後の「失われた20年」をこれ以上引き延ばさないために、社会全体の在り方、仕組みを変えるきっかけにすべきだ。 大転換を求められるほどの危機であることをしっかり認識すれば、「災い転じて福となす」ことができるはずだ。しかし、悲しいことにあまり期待はできない。 拉致事件の重大さの認識欠如 再び、拉致のことを思う。北朝鮮という国家が日本という国家に仕掛けたテロであるこの事件は、やはり国家が真正面から取り組むべき問題だった。 しかし、当時の自民党政権にはそうした認識はなく、事件が表ざたになったのは、20年もたってからだった。しかも「現代コリア」など民間メディアの粘り強い報道の結果だった。 本来なら、「国民の生命」を守るために、与野党力を合わせて迅速に解決に立ちあがるべきだった。当時、この国は右肩上がりの経済成長を続け、そのために生み出された利益をいかに分配するか、というよりその分捕り合戦に夢中で、それが政治の役割と勘違いをしていた。 拉致は、国家主権の侵害であるとともに国民の生命を危険にさらす事件であり、解決には与野党の垣根を越えて取り組むべきという認識が欠けていた。今回の巨大災害への政治の取り組みは、拉致事件がいまだに解決できない原因を示唆している。 政治は落ちるところまで落ちないと、これままではこの国がダメになる、何とかしなければという切実な危機感を持った指導者は出てこないのか。幕末・明治維新をはじめとする歴史を見てそうも思うが、いま歴史を学ぶ教材はいくらでもあるのに、あまりに情けない。 |