「禁断の木の実」を食った人民たち 岡林弘志 (2010.4.5) 北朝鮮のデノミは大失敗――。日がたつにつれて実情が明らかになっている。思いつきの経済政策は、闇市経済、市場経済で成り立っていた人民の生活を直撃し、強い反発を招いている。金正日総書記が挑んだ「市場」との戦いに勝ち目はなく、独裁体制そのものを大きくゆさぶっている。 「デノミ後」で注目されたのが、3月6日の咸鏡南道咸興市2・8ビナロン連合企業所の再稼働の大集会だ。 10万人が集まり、金正日も参加した。金正日が多数の人民が集まる場に顔を見せるのは、たまの軍事パレードぐらいのものだ。しかも咸興は、平壌から遠く離れ、反体制ムードが強く、これまでも民衆の暴動や軍のクーデタ未遂事件などが時々起きている。 こんな危険なところへなぜ金正日が出かけて行ったか。一つは、今年の公約である「人身生活の向上」への決意を誇示するためだ。集会の様子は大々的にテレビで放映された。 この工場は、金日成時代に近代工業化の象徴と宣伝された。しかし、最近は、資材や燃料不足で稼働停止状態にあり、ほぼ廃墟と化していた。 今回は二年かけて再稼働にこぎ着けたものだが、いまさら衣服には使えないというビニロンでもあるまいが、これくらいしか自前で誇れるものがないのだろう。 いずれにしても金日成の遺訓を守り、人民生活に配慮してやまない将軍様の姿を誇示したかったのだろう。 もう一つは、デノミでもっとも不穏な空気になっている地域へ出かけて行き、楯つくことは許さない、厳罰に処すぞという強い意志を人民に伝える目的もありそうだ。金正日批判、体制批判は断じて許さないという決意表明だ。 それほどデノミの後遺症が深刻であることを物語っている。 昨年11月のデノミは、市場経済を厳しく規制して、統制経済を復活するのが目的だった。もう少しえげつなく言えば、市場を制限付きで認めるにしても、金正日周辺が利権を独り占めできる仕組みに組み替えたという思惑もあった。 しかし、獲らぬ狸の皮算用。金正日に最大の誤算は、「市場主義」を甘く見すぎたことにある。 1990年代、配給制度は事実上、崩壊した。その中で人々は、闇市や公設市場で、家にあるなけなしの日用品や工場からかすめた鉄や銅の部品などを並べて、収入を得るようになる。 やがて、生活力たくましい人民は、党や軍の幹部を利用して横流しの品や中国製の日常品、生活必需品を手に入れて売るなど、だんだん市場経済に慣れていった。また、そうでない人々にとっても、市場は生き残るための食糧や生活必需品を手に入れる唯一の場になっていた。 もともと社会主義は配給制度があって初めて成り立つ。そうでなければ、人民を支配できないからだ。配給は権力の源泉だ。 反対に市場経済は、個人の存在を大前提にして成り立つ。個人の欲望の自由な発露、行動の自由がなければ成り立たない。それ故に至上主義、資本主義は、民主主義と表裏の関係にある。 北朝鮮で全国に広がっていた「市場」は、いつの間にか人々に「個人」意識を植え付けた。 お上が衣食住の面倒を見なければ、自分の才覚で生き残るしかない。また、商売で小金をためた人民は、カネの魅力を十分に味わった。 小金を貯めた人々にとって、金正日の忠誠心より、自らが汗水垂らし、あるいは頭を使って手に入れたカネの方が価値がある。市場主義はカネとモノの世界だ。忠誠心は金儲けの手段にはならない。むしろ邪魔だ。 もともと、北朝鮮はワイロ社会だ。商売をするうえに、ワイロは十二分にものを言う。 カネの魅力に取りつかれたのは、一般人民だけではない。軍や党幹部たちは袖の下によってカネのうまみを十分に味わっていた。 カネは生活や蓄財のためだけでなく、立身出世のためにも実に有効だ。全国にはびこった市場は、袖の下や利権をわがものとする機会を増やしてくれた。金正日周辺も市場主義の恩恵にたっぷり浸っていたのである。 こうした中でのデノミによる統制強化は、人々の「個人意識」を痛打した。 人民に食わせることもできず、商売の邪魔をするお上は、人民の敵だ。各地で小競り合いや暴動寸前の険悪な空気が漂った。 搾り取ることに懸命な将軍様やその取り巻きに対する不信、反発は、金正日の想像を超えるものだった。 余談ながら、北朝鮮でもっともカネの威力をもっとも知っているのは金正日かもしれない。ドルをばらまいて、党や軍の幹部の忠誠心を強要し、好みの女性を手に入れてきたからだ。それだけに、人民がカネの魅力にとりつかれることへの危機感が強いのか。 とにかく、「市場経済」は確実に人民の意識を変えている。今回のデノミは、そうした市場経済への挑戦という側面を持っている。 そしてデノミ実施後の担当責任者の左遷、市場閉鎖や外貨禁止の取り消しなどのあわてぶりを見ると、いまのところ、この挑戦は金正日の敗北におわっている。 金正日は2012年の「強盛大国」を至上の目標に据えている。今年初めから、すでに「思想(政治)と軍事は達成できた。残るは経済」と「人民生活の向上」を最重点目標に掲げた。 そのためのデノミだったのだが、肝心の「思想」すなわち金正日に対する忠誠心を大きく揺るがせることになってしまった。皮肉なことだ。 最近になって、金正日の健康不安にかかわる情報がよく出てくる。 「金正日の余命は三年程度」(キャンベル米国務次官補)、「糖尿病、高血圧、冠状動脈疾患などの持病を抱え、人工透析を受けている」(南成旭・韓国国家安保戦略研究所長)……。 そんな中で、金正日の訪中説が出ている。 六カ国協議への復帰を強く求めている中国へこの時期いくとしたら、デノミで混乱した経済をなんとか繕うための援助要請しか目的はない。 デノミの後遺症がいかに深刻化の象徴だ。 このところ、今回のデノミの失敗は独裁体制、金正日体制の危機、崩壊の始まり、とみる分析が出始めた。「禁断の木の実」を食った人民から「木の実」を取り上げることの恐ろしさを、念頭においてのことだろう。
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