長島陽子著『中国に夢を紡いだ日々 さらば「日中友好」』(論創社刊)を読む 南雲 智(なぐも・さとる 桜美林大学教授) (2010.3.2) 著者は「まえがき」で、次のように書いている。 「かつての私は新生中国に魅せられ、良くも悪くもリアルな目で中国を見ることができなかった。「人民民主主義共和国」という中国のおこなうことは多少の誤謬があっても、発展途上にあるのだと信じる、まさに「折り紙つきの中国派」であった」。 本書が本書たるゆえんは、もちろんこの「まえがき」の一節にあるのではない。「折り紙つきの中国派」だった著者が、今やなぜ「さらば「日中友好」」とまで言うようになったのか、それをみずから実直に検証し、告白し、〝リアルな目〟で見た中国を伝えようとしている点にある。言い換えるなら、中国に夢を紡いだ一人の女性の、中国を反射鏡とした「自分語り」であり、かけがえのない「自分史」に基づいた、貴重な「現代中国史」にほかならないからである。 一九六〇年の安保闘争が起きる前年の五九年四月に著者は初めて中国を訪問する。毛沢東率いる中華人民共和国誕生からほぼ十年後のことで、この当時、中国を訪れることができた人は希有な存在だった。なぜ著者がその希有な存在の一人になり得たのか。著者が日本共産党員であり、「活動家」だったからである。いやそれだけではない。選ばれた著者たちが帰国後、優れた中国の宣伝員として、黙っていても日本で活動してくれるという読みがあったからである。そうした計算がなければ、当時、ごく一般の日本人を中国が受け入れるはずもなく、「竹のカーテン」は分厚く閉じられていたのである。 この点に、著者は今では十二分に気がついている。著者たちの訪中一年後に野間宏、亀井勝一郎、大江健三郎ら「日本文学代表団」がやはり中国から招待されて訪中し、著者の言葉を借りれば〝優れた知性をお持ちだろう〟人びとが〝中国にイカレて帰ってきた〟と皮肉を込めて小気味よく批判していることからもわかる。 これらの〝優れた知性をお持ち〟の作家たちが、中国の思惑通りに、その多くが宣伝員になったことは言うまでもない。 本書第一章の章題にあるように、「初めての訪中で折り紙つき親中派に」なってしまった著者にとって、なぜ中国政府が丸抱えで著者たちを三十八日間にわたって招待し、通訳や工作員たちがなぜ心のこもった接待をしたのか。なぜ著者たちが使うバスや列車には他の乗客がいなかったのか。なぜ宿泊するホテルでは他の客と顔を合わせず、常にホテルの窓から外の景色が眺められない中庭に面した部屋をあてがわれ、食事は個室でしか食べられなかったのか等々に「なぜ」という疑問符をつけられなかったのはあまりにも当然だった。なにせ文化大革命の評価をめぐって、日本共産党の見解に同調せず、この運動を支持し、日共から除名されても「親中派」でいたのだから。 著者が初めて訪中した時期は、大躍進政策によって農民は鉄鋼生産にかり出されて、農業生産は落ち込み、さらに五九年からの三年間、中国は大飢饉に見舞われていた。また大躍進政策の失敗から、劉少奇が毛沢東に代わって国家主席についた年でもあった。やがて起きる文化大革命の序曲が、静かに、確実に奏でられ始めていく時期だったのである。 この大変な時期の、大変な姿を隠蔽されたまま、無邪気に感動していたみずからを告白するのには、それなりに痛みが伴い、勇気が必要だったに違いない。しかしそれ以上に、中国の実態を伝えたいという著者の強い意志が働いていたことは想像に難くない。本書には、「親中派」だった時には気がつかなかった多くの「なぜ」に、みずからの解答を出し、歴史的な事象や事件への評価のみならず、現在の中国にも忌憚のない見解が示されている。 その分析と解答を導き出すために客観的に中国に迫ろうとした観察眼は、「折り紙つきの親中派」からの転換過程で手中にした、著者のかけがえのない財産となっている。 それにしても、親中派からの転換を著者に促すきっかけが、一九七二年の「日中国交樹立」にあったというのはなんとも皮肉である。なぜなら「日中友好」を目指してきたならば、国交が樹立するのは歓迎すべき事だったはずだからである。しかし、政治は個人の想いなど無惨に踏みにじる。その意味で著者は二度目の訪中前に確認した「アメリカ帝国主義と日本軍国主義に反対して闘う」という共通目標が、帰国後に起きた「日中国交樹立」によって中国から裏切られたという思いを強く抱かされたのではないだろうか。中国側のご都合主義が次第に著者に中国認識の転換を促し、中国を相対化して見るようにさせたという。 そして、中国政府との訣別を決定的にさせたのが、民主化要求運動を弾圧した一九八九年六月四日の天安門事件だった。著者の断固たる中国との訣別の意志は、この天安門事件を中国政府側に立って擁護し続ける「日中友好協会(正統)本部」からの退会にも結びつく。かつて文化大革命の評価をめぐって日本共産党からは〝中国盲従派〟とまで批判されながらも新たに結成され、著者も勇んで参加していったはずの組織だったにもかかわらず。 しかし、著者は中国政府とは訣別したものの、中国人には決して興味を失ったわけではなかった。『人民中国』編集部の「専家」として、一九九三年から一年間、滞在するからである。ただし「決してシッポを振ることはするまい」と心に決めて。日本(人)と中国(人)が真の友好関係を結ぼうとするなら、著者が長い道のりを経てようやく手にした、客観的な視点に基づいた「是々非々」の姿勢こそ最良のものではないだろうか。 本書には「さらば「日中友好」」という副題がつけられている。だが本当にそうだろうか。確かに第六章には「幻想の「日中友好」」、第七章には「中国点描」が置かれ、辛口の中国(人)観や批評が見て取れる。しかし著者ほど、互いの民族同士がそれぞれ心底、理解しようとしない限り、真の日中友好など生まれようもないことを嫌と言うほど知っている人は少ないはずである。だからこそ時には、中国(人)への怒りが、不信が、哀しみが文字からほとばしり出てしまうのだ。真の日中友好関係を築こうとするからこそ、相手に対して遠慮せず、躊躇せず、むしろ積極的に〝是々非々〟の姿勢を示そうとするのだ。中国(人)を憎悪するから厳しい言葉が、批判があるのではない、という著者の姿勢を本書から見落としてはならない。 著者が「さらば「日中友好」」という訣別の言葉を中国に投げつけたその時、真の「日中友好」を築くための第一歩が新たに踏み出されたことを本書は我々に教えている。
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