北朝鮮は、なぜ中国に逆らえないのか~愛憎の中朝60年~ 五味洋治 (2008.10.22) 連載(12) 第5章 裏切られても関係を守る 対北朝鮮関係の根本的見直し 中国は文革の混乱が収まるに伴って、徐々に外交を整備していく。かつて中国は「敵、味方、友をはっきり区別しなければいけない」(注15)としていたが、82年9月の第12回全国代表大会で胡耀邦主席は、平和五原則を、資本主義国だけでなく「社会主義諸国もふくめ、すべての国の関係に適用される」と明らかにするなど、「全方位外交」を目指した。 また外国共産党との関係について、「マルクス主義の堅持を基礎とし、独立自主、完全平等、相互尊重、内部問題の不干渉」の党際四原則を提示し、「自己の観点を他に押しつけてはいけない」と強調した。平和五原則には(1)領土・主権の尊重(2)対外不侵略(相互不可侵)が盛り込まれていた。北朝鮮を特別扱いしていた中国は、この原則の下、徐々に関係を一般的なものに変えようと努力を始めた。 このころから中国で、北朝鮮に対する比重、関心が徐々に減少していたことを伺わせるデータがある。人民日報の報道を1971年と1981年で比べると、71年は北朝鮮が80回出現しており、118回のベトナムに続き、2位だった。10年後の81年には出現回数が43回に減り、10位に下がっている。81年の1位は米国だった。北朝鮮はこの10年間でアルバニア、キューバ、ラオス、ベトナムに続き、報道回数の減った国の5番目に入っていた(注16)。 中韓関係では、81年にはソウルでの学会に中国の学者が参加した。さらに83年5月5日に起きた事件が中国と韓国を近づける。瀋陽発上海行き中国民航機が6人の中国人によってハイジャックされ、ソウル近郊の春川に着陸した。100人あまりの乗客と機体の返還をめぐって韓国政府と中国政府の間で公式的な外交交渉が展開され、相手側の公式な国号を認め合う合意文書が作成された。この事件を通じ、中国は事件を円満に解決した韓国の存在を再認識した。同8月には、中国は国内で開かれる国際会議に韓国代表の参加を認め、国営メディアを使った韓国当局への非難も減少していく。 同10月9日、ラングーンテロ事件が起き、北朝鮮当局の犯行であることが判明した。この事件は全斗煥大統領を狙った爆弾テロで、韓国側は副首相や外務部長官ら閣僚4名を含む17人が死亡、ビルマ側にも多数の死傷者が出た。中国にとっても寝耳に水の事件だった。この事件に先立つ9月、鄧小平は訪米し、ワインバーガー国防長官に北朝鮮問題に関し、緊張緩和に向けて協力することを約束していた。さらに事件の前日に中国は北朝鮮から、韓国の参加を認める米、朝、韓の三者会談に参加するとの米国宛のメッセージを受け取ったばかりだった。 「四つの近代化」実現に向け、周辺国の安定に腐心していた鄧小平のメンツはラングーン事件のため、丸つぶれとなった。事件後数週間、鄧は北朝鮮関係者との面会を拒否したとも伝えられる(注17)。 中国は徐々に韓国との交流を拡大する。1984年、中国は韓国とのスポーツ交流を解禁し、中国での韓国国旗の掲揚も認めた。1980年代後半には中国は密かに「対南工作弁作室」を設置していた(注18)。 (注15)中華人民共和国外交部 中共中央文献研究室編「周恩来外交文選」:3ページ、
中央文献出版社、1989年 (注16)岡部達味編「中国外交――政策決定の構造」:75~88ページ、日本国際問題研究所、1983年 (注17)「中国与朝鮮半島国家関係文件資料匯編(1991~2006」:(上)、13ページ、世界知識出版 (注18)金夏中「舞い上がる龍」:239ページ、共同通信社 |