占領軍の司令官は盧武鉉の大統領当選への功臣だった映画人の明桂南と文盛瑾氏であった。明氏と文氏は長官人選(人事)にまで影響力を及ぼし、文化部長官に自分たちの人脈を座らせた。「民族文学作家会議」の幹部が長官の政策補佐官になり、傘下の主要機関長に民芸総系列の人々が順に入った。まず、文化芸術界の金蔓を押さえている「文芸振興院」院長と事務総長のポストが民族文学作家会議の理事長と常任理事に当てられた。国立現代美術館長にも民芸総の理事長が座った。文化観光政策研究院長は左派の文化理論家の組織である「文化連帯」の幹部が、韓国映像資料院長には「民族映画研究所」出身が占めた。そして文化界の主要人事は民芸総出身が長期執権するか、民芸総が去った席をまた民芸総が占める回転門方式になった。この「文化革命」を見たある文化界の要人は「人民軍が韓国を武力で占領しても、このように無謀で傍若無人な人事はしないだろう」と怒りながらも、自分たちの無力を自嘆した。
言論権力は、権力の維持と再執権の構図の下で集中攻略の対象になった。盧政権は言論界の平定の第一歩として、鄭淵珠ハンギョレ新聞の論説主幹をKBS社長に任命した。鄭氏は2002年の大統領選挙の時、ハンナラ党候補の息子の兵役問題が突き出るや「現役の3年をずっと勤務すると、バックグラウンドのない『闇の子供』であり、兵役の免除者は『神の息子』だと言われるという扇動的な歪曲のコラムを書いた人士だ。そのような彼が、2005年の国政監査では、自分の二人の息子が共に米国国籍を得て、軍隊に行かなかった事実がばれるや、「息子たちが米国に定着した根っ子を抜いて、韓国に移すのが不可能だ」と言った。鄭氏の長男が今韓国に戻り、ある大企業に勤めているという事実が明らかになった。鄭氏の社長体制の下で、大韓民国の建国元老たちを親日反逆輩として仕立てる連続ドラマが製作され、南米の反米の独裁者であるチャベスを韓国が見習うべきの、新自由主義に抵抗する闘士として目立たせるドキュメンタリーが大韓民国の公営放送の黄金時間帯に放映された。鄭氏は2006年、KBSの内外からの激しい反対があったにもかかわらず再任された。
2006年7月、スタートした第3期放送委員会は、常任委員5人の中、委員長、副委員長、常任委員など3人が言論界の政権親衛勢力の集結地である「民言連」(民主言論市民連合)出身だった。KBSの理事会とMBCの最大株主である「放送文化振興会」理事会、韓国言論財団など言論界の主要機構も盧武鉉政府とコードが合う人々が5年ずっと入ってきて出て行き、また戻ることを繰り返した。
盧武鉉政権が文化芸術界と言論界を掌握しようと執拗にしがみついたことは、文化の力が分かるからだ。彼らは、我が社会の周辺部にいた1970~80年代に、文学と映像分野および出版社と雑誌界を拠点に、左派の理念を生産しながら20代前後の世代と、社会の底辺に食い込んだ。彼らは、権力の掌握と維持のためには、人々の精神と情緒を支配する文化を先に占領しなければと考えたのだ。左派たちのこのような攻勢の前で、一部目覚めている人が抵抗し、対策を模索はしたが、多くの場合は諦め半分や無気力半でお手上げだった。
文化の生命は多様性である。私たちはこの5年間、権力の宣伝扇動隊に転落した芸術が、どれほど不毛地帯で、どれほど芸術家を荒廃化させたかを目撃した。文化権力を奪取した左派陣営からは小説らしい小説、詩らしい詩をあまり出せなかった。彼らもやはり、権力を得て芸術を失ってしまったのだ。政権が変わるというが文化芸術界の最も重要なポストを占めている彼らが素直に退かないだろう。むしろ、新しい出発に足かせをかけようとするだろう。我が社会の皆が文化と共に生き、芸術と交わり住む自然な文化生態系を復元させる、賢い方案を探さねばならない。