現代コリア

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崔圭夏元大統領

田中 明

(2007.2.15)

 

    韓国の第一〇代大統領だった崔圭夏氏の訃報に接したとき(二〇〇六年一〇月二二日死去)、私はあの国の他の指導者の死を聞いたときとは違った感慨に包まれた。

 

    氏は政治家として生きることを望んだ人ではなかった。職業外交官として国のために全力を尽くすこと、ただそれだけをおのが任として心がけてきた人だった。そうした有能だが無欲な人柄を、朴正煕大統領は信頼したのであろう。氏を外相、外務担当の大統領特別補佐官に就けたのち、国務総理という地位に任じた。

 

    崔氏は、求めてそうなったわけではあるまい。そのような人が、朴大統領暗殺という大変事のさい、たまたま総理だったために、憲法上の規定に従って大統領権限代行という職務を担うことになった。その後「一二・一二事件」で、軍上層部を制圧し権力を握った全斗煥少将らの新軍部は、とりあえず氏を大統領に据え、彼らの支配体制を構築していった。その間、社会は混沌とし、光州事件という流血の惨事も起こった。力を持たぬ崔大統領としては、それを見守るだけだった。

 

    やがて騒擾(そうじょう)事態を抑えつけた新軍部は、八〇年八月、全斗煥という自分たちの大統領を選出し、崔氏を御用済みとした。誰が見ても、あの時期の「大統領」は混乱期の穴埋めに使われた方便としての存在であった。

 

    そうした氏に対して、軍部をチェックできなかった「無能・優柔不断」の士という批評が加えられたが、実質的な権力の全くなかった名目大統領に対して、それは酷な話だった。権力者になろうという欲望のなかった人(だから朴大統領は信任してきた)、換言すれば政治家になる基本的な資質を欠いた人が、大統領暗殺事件後の「最も政治力を揮わなければならない時期」に、最高権力者にさせられていたのは悲劇だった。

 

    従って、崔氏に政治家としての力が不足していたことは否めない。しかし時が経つにつれ、私には「無能・優柔不断」の人という印象は薄れていき、いまは「強い人」という記憶の方が残っている。氏は後の政権から、新軍部の登場や光州事件など、あの混乱期の実情について証言を求められても、頑として拒否し通した。その「消極的頑固」とでもいうべき姿の方が、私の脳裡(のうり)には強く焼きついているのである。

 

    氏は「在任中の国政行為について、後日、法廷に出て証言したり釈明するのは、国家経営上望ましくない。前職大統領の証言は、国家元首という地位の威厳を冒瀆(ぼうとく)する行為になる」と拒否を貫き通した。九六年、高裁に強制召喚されたときは、どういう態度に出るのかとハラハラしたが、最後まで証言を拒否した。

 

    多方面から回顧録を書くよう勧められても「自分を正当化することになる」と肯(がえ)んじなかったという。

 

    氏は政治家としては無力であったかも知れない。だが最後に崔圭夏という「個人」の強さを、人々に思い知らせて逝ったのである。

 

 

    政治家になるためには、自分に同調する勢力を結集する手腕がなければならない。その手段として、宗族の紐帯(ちゅうたい)意識の強い韓国では、そうした意識を、政治家は勢力扶植の具としてきた。

 

    そこでは同族にエライ人が出ると、一族の者はその周りに蝟集(いしゅう)し、そのひきでなにがしかの地位や利権を得ようとし、エライ人の方もそれに応えることで、包容力のあるリーダーとしての地位を確保する――という常識が一般化していた。

 

    韓国人の同族紐帯感は、「兄弟は他人の始まり」といった諺のある日本では理解できないほど強い。日本の近代文学が、個の確立をめざし家の呪縛から脱出を図る近代的人間像を描こうとしたのに対し、韓国の近代文学は日本の影響を強く受けたにもかかわらず、家に対する姿勢についてだけは全く違っていた。家は呪縛するものではなく、母港のようにみずからを懐いてくれるものと描いてきた。

 

    それは国家が自分たちを守ってくれるという実感を持てなかった韓国人にとって、信頼できるのは血のつながりだけだったからであろう。財閥の支配層が、身内で固められていることは、周知の通りである。

 

    だが、崔氏はそういう〝伝統〟から遠い人だった。氏が大統領だったとき、「あの人の親戚が、ソウルでタクシーの運転手をしている」と教えてくれた韓国人がいた。真偽のほどは分からないが、そんなニュースが流れるのは、大統領の親戚がタクシー運転手に「身をやつしている」ことなどありえない、という常識があり、崔氏はそうした常識を破る人という評価があったからであろう。  朴正煕大統領が、親戚の陳情を防ぐために、彼らを追い返すための部署を設けたということは有名である。朴大統領の崔氏に対する信任には、そうしたことに対する同類意識があったのかも知れない。

 

    崔圭夏氏は同族の支援など念頭にない、真面目で有能な「個人」であり通したのだ。

 

    政治家としての評価は低かったが、外交官としての氏は「韓国外交の地平を拡げるのに、寄与するところが大きかった」と高い評価を受けている。とくに七三年のオイルショックのとき、サウジアラビアに飛んで、ハイサル国王の信頼をかちとり「韓国にはこれまでの水準で石油を供給する」との約束を得て、朴大統領から「君は一等功臣だ」と何度も言われたという。

 

    行政官としても真摯だった。首相のときは現場確認をモットーとした。七九年の石油騒動のとき、鉱山に出かけて坑道の先端まで入って坑夫を激励し「諸君の苦労を忘れないため、私は一生涯暖房には練炭を使う」と約束した。以後、それを守りつづけ、どの家庭もきれいな石油暖房にしているにもかかわらず、崔家の暖房はずっと練炭を用いてきたという。

 

    氏の真面目な人柄を物語るエピソードは多い。崔氏が外相のときか首相のときか忘れたが、公務員の昼食が贅沢に流れていると、朴大統領が警告を発したことがあった。すると崔氏は、さっそく弁当持ちで登庁したというのである。寝たきりの夫人の介護に尽力した愛妻物語も、よく知られている。

 

    こうした人を、表面的な敵・味方の黒白論理で裁くには、ためらいが生じよう。崔氏が公の場に現れた最後は、〇三年の盧武鉉大統領就任式だった。そのとき同じく招待された歴代大統領に対しては、会場から拍手喝采や失笑が浴びせられたが、崔氏のときだけは式場が静まりかえったという。氏に対しては、右とか左とかいう出来合いの物差しでは測れないものがあると、出席者も感得していたからであろう。

 

 

    氏について、私には個人的な思いがある。

 

    小林勝という作家がいた。私より一つ下の昭和二年生まれで、朝鮮で育った人だが、彼には「日本人中学校」(一九五七年)という小説がある。

 

    慶尚南道・大邱の日本人中学校に梅原健太という東京高師卒業の英語教師が赴任してきた。彼はくたびれた先生の多かった学校に、新鮮な溌剌たる空気をもたらした。彼の英語の発音は流暢で、講義は文学的であり、早口の巻き舌で語る東京での学生生活は「実に自由で、新鮮で、生徒たちを魅了した」。

 

    ところが、新学期が進むにつれて、梅原先生が朝鮮人らしいという噂が学校内に広まった。そのうち悪童どもは、「先生は朝鮮人だったんだね」とからかう仕掛けを教室に施す。怒りに震えた先生は「ぼくが、君たちに、何をしたかね……」と言って姿を消した。先生は学校を辞めて満州かシナへ行ったという――。

 

    作者はこの話を、目撃者の一人だった戦死した兄から聞いて小説にしたらしいが、初めてこれを読んだとき、同じころ京城(現ソウル)で日本人中学校に通っていた私は、共犯者のように心穏やかでないものがあった。私が通っていた中学校では、入学したとき五年生の一クラスの級長は朝鮮人だったし、小説のようなあざとい悪戯がなされるような空気は、全くなかっただけに、よけい腹立たしかった。

 

    後日、小林の作品集の解題で、モデルになった先生が、崔圭夏氏だったと知ってからは、氏に関する報道に接するたびに、痛みを反芻せざるをえなかった。氏の訃報を聞いて、思わず蕪辞(ぶじ)を連ねたのは、そんな私的な感情があったからである。読者は諒とされよ。